時間というのは幻想だ

 時間というものは実は存在しないと言ったら、皆さん驚くだろうか? だって、朝8時に起きて、10時から仕事を始めて…と時間はあるじゃないの、と思うだろう。だがよく考えてみてほしい。時間というのは人間が勝手に決めている概念に過ぎないのである。

昔、時間を計測する道具、すなわち時計がなかったころは、おそらく時間に対する感覚は今とはかなり違ったはずである。もちろん太陽が昇ってから天頂を通って沈む、という自然現象があるから、それを見ておおよその時間の概念というものはあったはずだが、何時何分とかそういう感覚はなかった。もっと言えば、自分の肉体が老いていく、その現象すら気にせずに、毎日瞑想三昧とかしていたら、時間の感覚は無くなる。

実際私は以前それをや33ったことがあるのだが、自意識から見ると、時間は伸びたり縮んだりする。一瞬で何十分も過ぎていたかと思えば、まだ数分しかたっていないの? なんていう事もあった。だがこれだと、現代社会でやっていけなくなるので、今はまあとりあえず周りの時間間隔に合わせているのだけれど、正直ばかばかしい。本来無いものに勝手に名前を付けてあたかも存在するかのように偽装して、社会を営んでいるのである。

また、時間感覚そのものはあっても、国や文化によって違いがある。日本では、数分の遅刻でも謝罪に値する大事であるかのように扱われているが、例えばオーストラリアなどでは、水道の修理を呼んでから、3日くらいたたないと来ないことは当たり前である。そしてそれに対して文句を言うと、ここはオーストラリアなんだから、お前がオーストラリア時間に合わせろ、と怒られる。オーストラリアやアメリカなど、広大な国土を持つ国では、移動するだけでも大変であり、数分、1時間単位で物事を考えても意味がないのである。アメリカの田舎だったら、何かあって警察を呼んでも、その日のうちに到着するとは限らない。だから皆自衛のために銃を持っているのだ。

このように、人間が作り出した社会システムと、そのための規則や常識というのは、人間の概念から規定されている事が多いため、時に生物としての本質からズレてしまうことがある。そして病気になったりするのである。


話が少し脇にそれた。先ほど時間の幻想性について話したが、そもそも何故時間という概念が発生するかといえば、私たちが肉体を持っているからである。肉体は初めは小さくて、だんだん成長して成人になり、その後老化して最後は死という形で失われることになる。この変化が時間という概念を生む。もちろん、人間の肉体だけでなく、この物質界は皆形あるものは変化していくから、あたかも時間があるかのように錯覚するのだ。だが、私たちに物質としての肉体が無かったらどうであろうか? 例えば霊だけ、魂だけならどうだろう? 肉体が無いのだから、飲み食いする必要はなく、雨風をしのぐ家も必要ない。おおよそ生存のための物理的な物は必要ない。そうなると、経済活動や、もっと原始的な狩猟や農業も必要ない。要するに労働する必要は無くなるのであって、そうなると時間による管理システムも必要ない。魂は永遠だから、そもそも時間とはまるで関係ないのだ。つまり、時間を必要とするこの物理次元は私たちの本質ではなく、仮の住まいなのである。



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