善悪など意味がない

 さて、世界に絶対的な善も悪もないのだという話である。善悪とは相対的なものなのだ。例えば、平和な時には殺人は紛れもない悪であり、犯罪でもあるのだが、戦争になれば家族や国民を守るために敵を殺すことが善となる。もちろん、自分は人殺しは絶対にしたくないので、逃げます、というのも個人の自由なのだが、妻や子を見殺しにして自分だけ逃げるとしたら、やはり普通の人間は後ろめたさを感じるのではないだろうか? 

暴力は通常忌むべき行為として認識されているわけだが、目の前で起きている暴力行為を止めるのに、暴力を行使する以外に何があるだろうか? ところが日本の法律では、正当防衛という名の暴力行為は認められていないのである。器物破損とか、万引きとか、良いわけではないが命にはあまり関係のない小さな犯罪には厳しいくせに、国民が自分の命を自衛するための行為に対しては規制が厳しいのである。これは、まるで家畜のように人間を飼いならして反撃する意欲を失わせ、権力者の良いように奴隷化するための政策とも言える。もちろん、そのおかげで力のない者同士、暴力事件は減少するから平和にはなるのだが、しかしそれはある種の生命力の低下をも招くと思う。人間の本性は基本的には動物なので、暴力もその一部として内包しているのが正常なのである。

もちろん、これは個人差の大きい事なのではあるが、危険が迫っているのに抵抗も反撃も出来ない人間ばかりになっては、衰退していくだけではないのか? 現代の若者の、頭は良いけれどどこか無気力で、何となく生きている様なライフスタイルは、もちろん時代を反映しているのであり、日本がすでに過去に経済発展を遂げ、先進国になってから随分時間がたった事と無関係ではないだろう。しかし、一生命体としての人間存在という意味では、かなり末期ではないのかと思えてくる。

本来生命とは弾ける炎のようなものなのであり、もっと生き生きとしたものであったはずである。そして、その生命力のあるがままに生きることの方が、本来幸せなはずなのである。このように言うと、浅はかな人は、それなら男が性欲の赴くままに女を襲っても良いのだな? などど勘違いをする輩がいるのだが、そのようなことはない。未開のジャングルに住む殆ど全裸の原始人だって、彼らなりの掟があるのである。昔、大航海時代にヨーロッパ人が南米のインディオに遭遇した時、彼らが衣服を着ていないのを見て、倫理も何もない野蛮人で、セックス三昧の生活をおくっている、動物と変わらない劣等種、などという偏見を持った。しかし実際にはインディオたちは厳しい部族の掟にしたがって暮らしていたのであり、ヨーロッパ人のように婦女子を強姦しまくったりはしていない。衣服を着ていないのは、一つは繊維産業が発達していなかったためと、高温多湿のジャングルに適応するためである。むしろ衣服を着ると、動きにくく、また高度な洗濯機もなかったから、疫病が発生する原因にもなった。実際、ヨーロッパ人が無理やり彼らに衣服を着せたら、村に疫病が発生したのである。


このように、物事にはそれぞれの理由と、臨機応変な対応が必要になるというだけのことで、どれが良いとか悪いとかの判断は意味がないのだ。


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