【生きよう!】私小説02

  さて、私の両親の置かれていた情況から、大体私がどのような時代のどのような環境で生まれたか、皆さんにもご想像が付くかと思う。時は1970年代初め、日本は戦後復興を終えて高度経済成長期にあった。だが私が生まれた家は、川沿いの小さな、本当に小さなあばら家といって良い様な家で、そこに祖父母と両親、そして私の5人で暮らしていた。まだ弟は生まれていないのだが、不思議なことに幼い私の記憶には、断片的にこの家で弟と遊んだ記憶が残っている。何故かは分からないのだが、多分厳しい環境の中で、空想の世界で遊ぶ癖があったからだと思う。最も、当時の私には、自分の生まれた環境がそんなに酷いものだとの認識は無かったのだが。だって、私はまだ他の世界を知らず、自分の生まれた家と、その周辺の小さな地域社会が世界だったのだから。狭い家に家族でひしめき合って暮らしていた訳だが、ご近所も似たり寄ったりであるのに、その小さな世界の中で、色々なドラマがあった様である。様である、というのは、私はそれらのエピソードを、もっと大きくなってから主に父から聞いたからで、幼児期にはそんな事は露程も知らなかったのである。


 例えばなこんな話を聞いた。最初、我が家にはまだ冷蔵庫は無かったのだが、既に先に冷蔵庫を手に入れた近所の奥方が、さも自慢気に、嫌みったらしく父にこう言ったそうである。

「あら、お宅はまだなの? 宅は主人の稼ぎが良いものですからね、まあ、あなたの所はお気の毒にねぇ! 

 父は後には半導体を作る会社の前身である、化学肥料を作っていた工場に勤めていたのだが、まだ入社して間もなかったし、役職も付かない一作業員の給料は決して高くは無かったのである。今から振り返ってその話を俯瞰して見れば、まあ何とも他愛の無い話であるのだが、当時の父は相当悔しかった様で、今でも時々その話をする位である。まあ、生まれつき裕福な家庭で育った人間には分からない悔しさであろう。物に溢れた現代日本人の感性からすれば、何だってそんなみみっちい比較でマウント取って喜んでるんだろう? と思うわけだが、当時の庶民感覚はそんな感じだったのだろう。


 この様に、非常に根性の狭い人間感情の泥沼が繰り広げられていた訳だが、私には関係なかったし、もう顔も名前も覚えていないけれど、少し年上のお姉さん達に可愛がってもらった記憶がある。庶民総貧困社会ではあったが、その代わり子供たちはかなり自由にされていたし、か可愛らしい悪戯も許されていた。そして、ほとんど危ない目に会う事も無かったのである。もちろん、大人達の社会ではもっと複雑な情況があり、犯罪も今よりは多かった訳だが、私の周辺では貧しい世帯が多い割には比較的平和だった。この点に関しては、親やご近所住民の方々に感謝すべきだろう。

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